アウトプットがインプットを呼ぶ

 

知的好奇心が高い人々にとって、インプットはアウトプットよりも何倍も報酬系が刺激される。アウトプットにいいねがつくよりも、一部の人に深くアウトプットが刺さって欲しいと考えることが多いだろう。

 

インプットはアウトプットのための手段であると言われ、「ノウハウコレクターになるな、手を動かせ」とは巷でよく聞く人生訓だ

一方で、良いアウトプットは良いインプットから生まれるとも言われる。

そして私のように、「アウトプットはインプットのアンテナを立て、インプットをより楽しむためにある」というものもいる。

 

これはどれが正しいのか。無論、どれも正しい。

結局、こういったスローガンは万人に当てはまることはない。どれが自分に合っているかを探すしかない。さらに、それぞれ誰が言っているかを考えなければならない。

 

一昔前に流行った、オンラインサロンやブログ情報商材は、もっぱら一つ目の教え方が多かった。「いらぬことを考えるな、手を動かせ」というのは、講師がブログ以外のことを考えさせたくないからだ。ブログ以外のあれこれを考えられると、顧客離反につながるし、インプットを元に反論されると講師としての立場を失う。情報を遮断し「自分のいうことが正であり、それ以外は間違い」と暗に伝えることで、良いカモを繋ぎ止める。わかりやすく洗脳のプロセスが含まれている。

 

そして良いアウトプットは良いインプットから生まれる、という言説は、もっぱらクリエイターや文化人に多い。彼らは自分のブランドで飯を食うから、雑にアウトプットをしていることが知られてしまうと都合が悪い。「良いアウトプットは良いインプットから生まれますよ」というのは、「だから私は良いインプットをしている知識人であり、だからこそ良いアウトプットを出せます」と翻訳できる

 

それが、「意図」である。「何を言っているか」だけを受け取って判断すると割を食う。「誰が言っているのか」「なぜそういうのか」を考える癖をつけると、利子付きの夢借金を払わなくて済む。

 

とはいえ、じゃあ意図があるものは汚れた情報なのか?というとそうでない。

その意図を読み取った上でなぜそう言っているのかまで考えれたなら、あとはその考えを使うかそうでないかを決めれば良い。自由意志を持てる。

思うに、リベラルアーツとはこのような考えを指しているのだと思う。意図のある情報に対してさまざまな角度から考え、それを使うかどうかを自由に決められること。そのための土台となる知識・教養のことを指すのだろう。

 

一つ目が性格的に合う人もいれば二つ目が合う人もいる。私のように自分に合った三つ目を出すこともできる。

 

情報商材に騙されてしまう人はどうやら、リベラルアーツに相当するものがないのだと思う。というより、それを軽視しているのだろう。

自分で判断するための知能がないから、実績のある人が言うことを信じる。彼らにとってこの考えは脳のリソースを節約するためには合理的な考えである

そうやって一度はまってみるのも良い。そうすれば、どこが正しくてどこが正しくなかったのか、相対的な考えを生むことができる。

 

一つ言えるのは、言葉に騙されて夢を見させられるのは、何もやらないよりもマシであると言うこと。損か得かは置いといて。