強さとは、まなざしに打ち勝つことである

「強くなりたい」

そんな言葉を、頭の中で浮かべ、手触り感のない答えを自分なりに出す。

小さい頃から、「強くなりたい」と思うことが多々あった。しかし、いつまで経っても「強さ」が何なのかがわからなかった。

最近、ようやく一つの答えが出せたような気がする。

強さとは、まなざしに打ち勝つこと

強さとは、まなざしに打ち勝つことではないかと、一つの答えに行き着いた。

それでは、まなざしとは何か。

それは、自身の意思決定や思考に対して、脳内で反対意見を述べてくる他者の存在。

たとえば、「起業したい」と意思する。その時に脳内で「起業なんてやめた方がいい」という他者、ぬくぬくと勤め人をしそこそこの給料を得ている他者(主に友人)の顔が思い浮かぶ。

この自分の意思に対して、脳が生み出す「他者」。それこそが「まなざし」である。

まなざしを感じ、自分の意思がいつの間にか削がれる。コスパ・タイパ・メリットデメリットを鑑み、意思が意思でなくなる。模範解答の答えになる。

強さとは、そのまなざしに打ち勝つこと。自分の意思があり、まなざしが生じ、「うるせぇ黙って見てろ」と言い切り、実行し、やり続け、成果を生み出すこと。

不合理な選択をし続ける

「強くなる」とは、世間と外れた選択を意思し続け、その度に生じるまなざしに対して「黙って見てろボケ」と言い放ち続けること。

不合理な選択をすると、真っ当な意見がまなざしとして生じる。そして、それに打ち勝つための「言葉」を紡ぎ続ける。

その言葉こそが、人生の深みや懐の深さ、強さ、そして本質的な優しさが生まれる。

他人に合わせ、合理的な選択をし続けると、まなざしは生じない。「そうそう、それでいいんだよ」と、合理的な選択をし続けた人間の複合体(=みんな)が賞賛し、褒め称え、模範解答で人生が満たされる。

その結果、あまちゃんな温室育ちの規範的でコモディティな人間になっていく。

後悔ばかりの死に際を目指そうぜ

自己啓発本やコモディティな人間たちが口を揃えて言う。

「死ぬ時に後悔したくないじゃん?」

…くそだろ、まじでこんなの。

「あんなことやらなければよかった」「あの時みんなに合わせてればよかった」

そんな不合理な選択をし続けた先に残る後悔ばかりの人生の方を送れ。後悔して死ね。強さを指向するのは後悔して死ぬことを選び続けること。

強くあるとは、死ぬまで完成しない過程だ。死の間際に強烈な後悔を残して「お前」として死ねるならお前は強さを完成させて死ねる。それとも模範解答の道を進んで「みんな」として死ぬのを選ぶのか?

世界にはきみ以外に誰も歩むことのできない唯一の道がある。この道はどこに続くのかと問うてはならない。迷わず進め

フリードニヒ・ニーチェ