消費社会の神話と構造

ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』は1970年代に書かれたとは思えない、現代消費社会の本質を抉り出している。

人々の消費活動は、使用価値を超え、意味を消費する活動として、無限に喚起され続ける。

意味の消費は、準拠集団との限界的差別化で表される。

つまり、自分が属している社会集団の中で、「全く同じでなく、かつ違い過ぎず」を追求する活動である。

この人間の志向性は、1970年代から変わっていない。むしろ、SNSが発達した今、準拠集団を無限の選択肢の中から主体的に選べ、その傾向は当時よりも強くなっていると言える。

こうした中で、一つ疑問点が湧く。

それは、スマホの中にあるアプリケーションそのものは、意味消費の対象となるのか、ということである。

Instagramを眺めていると、その「意味消費」は如実に見てとれる。「どこそこのコスメを買った」というストーリーは、使用価値を消費するのではなく、意味消費を端的に表す。また、商品(記号)そのものも、ストーリーで消費されることを意識したパッケージデザインとなっている。

しかし、そのプラットフォームであるInstagramや、または自身の睡眠データを記録するヘルスケアツールなどは、意味消費の対象となるのであろうか。

そして、朧げながら明らかであるように、「Instagramを使っている」といったアプリケーションそのものの意味消費は、どの時点から可能なのであろうか。

このことを明らかにする意義は、意味消費の論理をアプリケーション開発へと持ち込み、強固なグロース戦略を打ち立てることにつながる。

ちょうど、本書の『消費社会の神話と構造』を参考とし、無印良品が作られたように。

メディアの役割

メディアの役割は、

『大衆に「あなたの社会は平和ですよ」とメッセージするには、身近に起きた平和なニュースよりも、遠国で起きたセンセーショナルなニュースを伝える』

ことである。時々、「もっと平和なニュースが報道されればいいのに」と言ったツイートを拝見するが、それは消費社会の論理からいうと不可能なのである。

平和なニュースというのは、逆説的には平和でない。ニュースという媒体そのものが、身近になってしまうから。人々が安心するのは、自分の起きる地球上でありつつも、身近ではない国や地域に起きたセンセーショナルなニュース(貧困や戦争、強盗など)を見ることによって、「何も起こらない現実」を遠巻きに見るからである。

この、同じ地球であること、とはつまり束の間の現実への侵入を許す。

そうした社会構造に生きる人々にとって、真に『平和なニュース』とは、身近な平和なニュースではなく、遠い国のセンセーショナルなニュースなのだ。

電気洗濯機の二重の役割

本書執筆当時の1970年代、日本においては高度経済成長が一巡し、各家庭に電気洗濯機が行き渡った時代である。

そうした時代において、3種の神器として数えられる『電気洗濯機』は、「主婦の洗濯の効率化」という道具性と、「電気洗濯機を持っている中流階級である家庭(私)」という意味を持っていた。

ここにはツール系のアプリケーションのヒントが隠されている。つまり、有用性に加え、それを使用していることについての意義づけが、電気洗濯機という道具には付与されていた。

つまり冒頭の疑問への回答としては、道具についても、意味づけが可能である、ということになる。

次の論点としては、「いかにして道具に意味を付与するか」となるだろう。

youtuberとクワキウトル族

クワキウトル族は、自らの地位の証明として、テントの屋根やカヌーの紋章を刻んだ銅板を犠牲にし、焼いたり捨てたりする。それは、他の一般庶民と違うことを示すため、一般庶民にはなしえないことをすることで、自身の階級が特別であることを示す。

これはちょうど、昨今のyoutuerが散財する動画をアップロードするように。

計量可能性と平等主義的イデオロギーの罪

平等主義イデオロギーは、消費社会を加速させる。平等とは、軽量可能な幸福でなければならないからだ。どの車種に乗っているのか。どんなブランド品に身を包んでいるのか。そうした格差を糾弾すればするほど、彼らの論理が軽量可能なものを舌戦の舞台とするから。

全ての人間はモノと財の使用価値の前で平等である。誰が何を所有し、消費しているのか。そこには、民族や文化を超え、社会的・歴史的不平等がもはや存在しないような客観的効用、または自然的合目的性の関係である。

平等主義イデオロギーと福祉の概念は、ここで共通項を結ぶ。

平等主義は愛を教義として唱えるが、それは全くの逆、つまり消費社会の論理にのまれた軽量可能性を行間に埋め尽くす。