『消費社会の神話と構造』
人の購買行動が他者の目を通すもの(服や装飾品)と個人の感覚に終始するもの(インテリアやクレジットカードなど)で消費性向が別れるのか、別れる場合はどういった力学が働くのか、そもそも分け隔てないのかを疑問点とし読む。— イタリア (@itariahututarou) December 28, 2021
ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』は1970年代に書かれたとは思えない、現代消費社会の本質を抉り出している。
人々の消費活動は、使用価値を超え、意味を消費する活動として、無限に喚起され続ける。
意味の消費は、準拠集団との限界的差別化で表される。
つまり、自分が属している社会集団の中で、「全く同じでなく、かつ違い過ぎず」を追求する活動である。
この人間の志向性は、1970年代から変わっていない。むしろ、SNSが発達した今、準拠集団を無限の選択肢の中から主体的に選べ、その傾向は当時よりも強くなっていると言える。
こうした中で、一つ疑問点が湧く。
それは、スマホの中にあるアプリケーションそのものは、意味消費の対象となるのか、ということである。
Instagramを眺めていると、その「意味消費」は如実に見てとれる。「どこそこのコスメを買った」というストーリーは、使用価値を消費するのではなく、意味消費を端的に表す。また、商品(記号)そのものも、ストーリーで消費されることを意識したパッケージデザインとなっている。
しかし、そのプラットフォームであるInstagramや、または自身の睡眠データを記録するヘルスケアツールなどは、意味消費の対象となるのであろうか。
そして、朧げながら明らかであるように、「Instagramを使っている」といったアプリケーションそのものの意味消費は、どの時点から可能なのであろうか。
このことを明らかにする意義は、意味消費の論理をアプリケーション開発へと持ち込み、強固なグロース戦略を打ち立てることにつながる。
ちょうど、本書の『消費社会の神話と構造』を参考とし、無印良品が作られたように。
メディアの役割
大衆に「あなたの社会は平和ですよ」とメッセージするには、身近に起きた平和なニュースよりも、遠国で起きたセンセーショナルなニュースを伝える方が何倍も効果的なのだ。、
— イタリア (@itariahututarou) January 12, 2022
メディアの役割は、
『大衆に「あなたの社会は平和ですよ」とメッセージするには、身近に起きた平和なニュースよりも、遠国で起きたセンセーショナルなニュースを伝える』
ことである。時々、「もっと平和なニュースが報道されればいいのに」と言ったツイートを拝見するが、それは消費社会の論理からいうと不可能なのである。
平和なニュースがいい。ニュースほとんどギスギスしてる。なんかネコちゃんイヌくんニュース!みたいな番組あればいいのに
— ウィリアムに尽くし隊ω・´ (@mutsuNo3) February 1, 2021
平和なニュースというのは、逆説的には平和でない。ニュースという媒体そのものが、身近になってしまうから。人々が安心するのは、自分の起きる地球上でありつつも、身近ではない国や地域に起きたセンセーショナルなニュース(貧困や戦争、強盗など)を見ることによって、「何も起こらない現実」を遠巻きに見るからである。
この、同じ地球であること、とはつまり束の間の現実への侵入を許す。
我々は記号に保護されて、現実を否定しつつ暮らしている。世界についてのさまざまなイメージを目にする時、束の間の現実への侵入とその場に居合わせないですむという深い喜びとを、誰が区別したりするであろうか。
— イタリア (@itariahututarou) December 28, 2021
そうした社会構造に生きる人々にとって、真に『平和なニュース』とは、身近な平和なニュースではなく、遠い国のセンセーショナルなニュースなのだ。
電気洗濯機の二重の役割
電気洗濯機は道具として用いられると共に、幸福や権威等の要素としての役割を演じている。後者こそは消費の固有な領域である。(中略)中世社会が神と悪魔の上で均衡を保っていたように、われわれの社会は消費とその告発の上で均衡を保っている。
— イタリア (@itariahututarou) December 28, 2021
本書執筆当時の1970年代、日本においては高度経済成長が一巡し、各家庭に電気洗濯機が行き渡った時代である。
そうした時代において、3種の神器として数えられる『電気洗濯機』は、「主婦の洗濯の効率化」という道具性と、「電気洗濯機を持っている中流階級である家庭(私)」という意味を持っていた。
ここにはツール系のアプリケーションのヒントが隠されている。つまり、有用性に加え、それを使用していることについての意義づけが、電気洗濯機という道具には付与されていた。
つまり冒頭の疑問への回答としては、道具についても、意味づけが可能である、ということになる。
次の論点としては、「いかにして道具に意味を付与するか」となるだろう。
youtuberとクワキウトル族
クワキウトル族はテントの屋根やカヌーや紋章を刻んだ銅板を犠牲に供し、「自らの地位を維持するために」焼いたり海に捨てる。これまでのどの時代でも貴族階級ら無駄遣い的出費を行うことによって、自己の優越性を示した。
— イタリア (@itariahututarou) January 1, 2022
クワキウトル族は、自らの地位の証明として、テントの屋根やカヌーの紋章を刻んだ銅板を犠牲にし、焼いたり捨てたりする。それは、他の一般庶民と違うことを示すため、一般庶民にはなしえないことをすることで、自身の階級が特別であることを示す。
これはちょうど、昨今のyoutuerが散財する動画をアップロードするように。
計量可能性と平等主義的イデオロギーの罪
平等主義的イデオロギーは、消費社会を加速させる。なぜなら、平等とは計量可能な幸福でなければならないから。内面的な享受としての幸福(つまり、幸福を表示する記号とは無関係な幸福)は一切除外される。
— イタリア (@itariahututarou) January 8, 2022
平等主義イデオロギーは、消費社会を加速させる。平等とは、軽量可能な幸福でなければならないからだ。どの車種に乗っているのか。どんなブランド品に身を包んでいるのか。そうした格差を糾弾すればするほど、彼らの論理が軽量可能なものを舌戦の舞台とするから。
全ての人間はモノと財の使用価値の前で平等である。誰が何を所有し、消費しているのか。そこには、民族や文化を超え、社会的・歴史的不平等がもはや存在しないような客観的効用、または自然的合目的性の関係である。
平等主義イデオロギーと福祉の概念は、ここで共通項を結ぶ。
平等主義は愛を教義として唱えるが、それは全くの逆、つまり消費社会の論理にのまれた軽量可能性を行間に埋め尽くす。