お墓の歴史、岩石の種類、宗教との繋がり、市場規模とかを調べた

埋葬の歴史

縄文時代

埋葬という行為は、古代学が遡れる範囲であると、約15000年から23000年前の縄文時代からあるらしい。23000年前というと日本がまだ大陸と陸続きで、ナウマンゾウやマンモスが生息している更新世である。私たちが思い浮かべるような、マンモスを複数人の男達が石器を片手に囲んで狩りをしている「原始人」のころからお墓というものはあったようだ。

縄文時代のお墓は、単に遺体を素掘りの穴の中に身体を曲げるようにしてほうむる屈葬が行われていた。

死人を埋葬する、という行為は人間を他の動物と分けて考えており、20000年近い私たちの先祖も、死後の世界や弔いといった考えた方を持っていたのだ。

たしかに、明日の食糧があるかどうかもわからない時代に生きていれば、目に見えない超現実のことを思う気持ちは大いにわかる。「死ぬ」ということが科学的に全く明らかにされていない当時、冷たくなって動かなくなった他者を葬り、霊威を感じていたことは現代を生きる私たちでも想像することができる。

弥生時代

大陸から水稲耕作が伝わり、農耕文化が九州地方から花咲いた紀元前4世紀ごろの弥生時代では、甕棺に遺体を治めるようになった。今の棺に死者を治める行為に近い。

ちなみに棺は埋葬文化圏で広まりやすく、火葬文化圏では骨壺が使用されることが多い。日本では火葬するにもかかわらず棺が使われる稀有な民族であるようだ。資源が豊富でない日本において、棺のまま火にかける文化があるのは、死者への思いや葬いが強いのだろうか。

宗教民俗学者の五来重は葬と供養で「日本人の本来の棺は桶棺か座棺である」と述べている。元来、桶棺や座棺は屈葬死体を納めるものであるのに対し、寝棺は伸展葬死体を納めるもので、大陸の支配者の寝棺が日本の支配者に模倣され、戦後日本人の「中流意識」によって寝棺が一般化したと解釈されている。

京都市の「火葬における座棺と寝棺の比率」によると、戦後間もない昭和21年(1946年)は72%が座棺で火葬されていたが、昭和27年(1952年)には54.9%に減少しており、たった6年で15%近く減少している。鯖田豊二は『火葬の文化』で、座棺のときには燒骨はひとかたまりのままだったが、寝棺になってから、現在のような竹の箸で燒骨を拾っていく風習が生まれたといっている。

古墳時代

日本史の教科書に、古墳時代と出てきたが、この時代の墓が全て古墳だったのではない。むしろ古墳というのは当時の墓制の一種に過ぎず、あまりにも少数の、限られた人だけが古墳を持ち得たに過ぎなかったと思われる。その他の大部分の人々は縄文時代や弥生時代と同じように埋葬されており、墓を発見することが困難である。埋葬が行われたにもかかわらず墓が発見されないということは、その墓が我々の注意から逸しているような特殊な場所にあるためではなく、それが遺跡として残り難い形式であったものからであろう。

ちなみに、古墳の発生は貴族の発生よりおくれて、貴族の権威の革新をまって発生した。すなわち世襲制の発生によってその地位と権力とを保証された主張が、伝世の宝鏡の保管によって象徴されるような、在来の司祭的権威への依存を必要としなくなった時に発生し、宝鏡の伝世は立たれたのである。

三角縁神獣鏡の画像

当時、ヤマト(倭)王権は政治的・祭祀的権威を表象する宝器や儀器を自ら創り出し、国産の銅鏡を生産していた。古墳は、銅鏡にとって代わって権力を示すものとなった。

大化の改新の翌年に発令された薄葬令によって、古墳時代は終了した。薄葬令は葬儀や葬具、お墓の作り方の決まりを作ったもので、中央豪族の大規模な墳墓を規制し、朝廷への中央集権化を見据えて発令されたのだろう。

話は少しそれるが、「豪族」というのは当時どういう存在だったのだろうか。私は当時の豪族の存在感というのは現在の巨大企業のようなものではないかと考えている。「facebook国民」は20億人以上おり、「自国通貨」であるリブラに対してアメリカの金融当局は猛反対した。中央政府が大きすぎる権力を嫌い攻撃するのは今も昔も変わらないのだな、と思った。

仁徳天皇(世界三大墓跡)

古墳時代に作られた仁徳天皇陵は、エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界三大墳墓の一つである。全長約486mで、アマゾンの倉庫よりも余裕ででかいし、甲子園だって足元にも及ばない。

甲子園の鳥瞰画像

大仙陵古墳の鳥瞰画像

なお、大林組が発刊する『季刊大林』では、古代工法では15年8ヶ月の工期を要し、さらに述べ680万人の作業員が動員されると試算している。

ちなみに、クフ王のピラミッドを現代工法で建設すると5年の工期がかかると試算されている(仁徳天皇陵は2年6ヶ月と試算)。古代工法での試算はなかったものの、ヘロドトスの『歴史』によると、数十万の奴隷を20年間働かせてようやく完成させた、と記述されている。

日本でも同じように奴隷を過酷な労働環境の元に働かせたのだろうか。いやいや、ピラミッド建設に当たった奴隷の労働環境、福利厚生は素晴らしかったという話も聞いたことがあるから、一概に過酷だったとも言えないな。

平安時代&鎌倉時代

平安時代には唐からの仏教の影響によって、仏教に近かった一部の特権階級の人々が火葬されるようになり、鎌倉時代からは一般人も火葬されるようになってきたようだ。

鎌倉時代では、火葬と土葬が現代のように並行して存在していたらしい。とはいえ、お墓に墓標の概念はなく、火葬後の遺骨は土中に埋めるもののその上に何か立てるといった行為は行われていなかったようだ。

とは言え、火葬にも死体を燃やすための燃料がいるから、ある程度裕福な一般人でないと火葬はできなかったという説もあるようだ。

江戸時代

時代が下って火葬が広まってきたものの、江戸時代には火葬が廃れ、土葬が主流となる逆行の流れがあったようだ。仏教による輪廻転生の思想があったかららしい。うーん、仏教ようわからん。

遺体は死に装束で棺桶に納め土中に埋葬し、その上に土を盛り上げた土饅頭(どまんじゅう)をするようになったらしい。

武士のお墓には板塔婆(いたとうば)や石塔婆(いしとうば)を立てるようになり、その後庶民にも広まり板塔婆や墓石をお墓の上に設置することが一般的になったようだ。

船で遠方の石材を運んだり、各地に石切り場や石工が増えたりしたことで、以前より墓石を安く入手できるようになったことも背景である。

ちなみに板塔婆と卒塔婆は同じものらしい。

卒塔婆の画像

板塔婆。でこぼこは五重の塔をイメージして作られており、上から空・風・火・水・地を表しているらしい。

石塔婆の画像

石塔婆

死者を埋めたあとに、その場所に死者が眠っていることを意識し始めたのがこの頃なんじゃないかなぁ。塔婆を立てるということは、場所と死者が紐づくようになるし。知らんけど。

江戸時代は檀家制度をとっており、当時の人々はどこかの寺院に所属する必要があった。戸籍の管理と隠れキリシタンの排除が目的と言われているが、庶民にもお墓が浸透していくことつながった。

明治時代

江戸時代まではお墓は寺院が管理するものしか許されていなかったが、明治時代から公共の墓地が作られるようになった。現代の墓地の走りと言える。

人口増加に伴う土地不足によって火葬が主流となり、家墓の伝統もこの頃に生まれたようである。

明治初期は神道の反発によって火葬禁止令が出たが、仏教徒からの反発と衛生面から2年で解除された。

昭和から現代

誰でも気兼ねなくお墓を立てられるようになったのは昭和30年代の高度経済成長期以降である。

洋風な墓石も建てられるようになり、以前よりもお墓=仏教という結びつきは格段に薄くなったと言える。さらに、子供にお墓の面倒をかけたくないという理由で樹木葬を選ぶ人も増えているそうだ。

ライフスタイルの変化は死後の在り方にも影響している。

宗教との繋がり

波平恵美子(1993)の『弔い-死者儀礼に表現される死の観念』では、「宗教は、人間存在の基本的観念を明確にし、死者の世界や霊魂についての観念を体系的なものに整える上で大きな影響力を持つ。より正確には、死を扱うからこそ、宗教は成立するのであり、人間の死について何の観念も行為の形(儀礼)も明確にしなければ、それは宗教ではない」と表現している。

日本では古来から土葬が行われているが、それは人間と大地の繋がりを、自分の意志では土に還ることのできなくなった死者に対する最後の思いやりとも捉えられるし、死後の魂は天に昇ると考えられていた地域では鳥葬が行われていたようだ。

とはいえ、丹下 智賀子(2004)の『宗教性と死に対する態度』では、有信仰者が比較的少ない日本において、年中行事(クリスマス、初詣など)は信仰に基づいて行われることは少なく、宗教的な意味を深く認識している可能性は低いとしている。

それでも葬儀や埋葬が行われることについては、「死」そのものを受け入れることの困難さがあげられる。家族や友人、配偶者の死に対処する困難さに対して、宗教は信念や思考の枠組みを提供してくれる。

私も父がなくなった直後、父の友人だった住職が遺体の前でお経を唱えてくれた。その行為自体の意味はわからなかったが、それでも「宗教」を通じて「死後の世界」という思考の枠組みが作られ、最後に父と会話ができた気がした。

葬儀やお墓がないと、その人の死が宙ぶらりんになるだろう。葬儀やお墓を作って、「終わり」を作ってあげることに意味があるのではないだろうか。

埋葬方法

主流の埋葬方法は火葬と土葬であるが、現代ではほとんど火葬であるらしい。土地の問題からである。

他にも、埋葬方法はいろいろあるようだ。DMMの就活ネットが非常に詳しかった。

火葬
遺体を焼却し、遺骨を納骨堂に納めたり、お墓に納める方法です。
宗教により火葬が禁じられている国もあります。

一般的なやつ

土葬
遺体をそのまま地面に埋めて埋葬する方法です。

一般的なやつ

散骨
火葬した後の遺骨を粉末状に砕き、海や川、空、山、森林などにまく方法です。
日本では、散骨を禁止している自治体や散骨に許可が必要場自治体もあるので注意が必要です。
中国やブータンなどでは、散骨は普通の弔い方法のひとつとされています。
石原裕次郎、アルベルト・アインシュタインなどは散骨で埋葬しました。

これわいが一番興味あるやつ。

最愛の妻に人生で出会った中で一番綺麗な海に散骨してもらうんダァ

水葬
遺体を海や川に流す方法です。
遺体が浮き上がらないように配慮して行います。
日本では、船舶上で人が死亡した場合や自衛隊の活動の中で死亡した場合に状況に応じ、条件を満たせば水葬ができます。
日本以外では、インドなどでヒンドゥー教による水葬が行われています。

へぇ!日本でも条件を満たせばできるのか。海水浴場とかに流れてきたりしないのかな

鳥葬
遺体を鳥に食べさせる方法です。
日本では、鳥葬は死体損壊罪に当たる可能性があるため禁止されています。
チベット仏教やインドのゾロアスター教で鳥葬が行われています。
石で作られた鳥葬用の場所に遺体を置いて鳥に食べて貰います。

こっっわ

樹木葬
埋葬した場所に、墓石を立てるのでは無く、樹木を植える方法です。
日本では許可を受けた樹木葬用の墓地に葬らなければなりません。
自由に樹木の下に死体や遺骨を埋めることはできません。
使われる木としては、ハナミズキ、サルスベリ、モミジなどがあります。

樹木を植えるのか。木にねじ込むのかと思ってた。けど、これめっちゃいいな。木の栄養になるし、手入れもそんなにいらないし。

風葬
遺体を埋めることなく、風雨にさらして、風化させる方法です。
この様な自然の腐敗風化に任せるのは、現代日本では死体損壊罪に当たる可能性がありますし、自治体が条例で禁止していることが多いです。
日本では、昔、沖縄地方で行われていたことがあります。

死体遺棄じゃん

野ざらし葬
遺体を原野や林に放置し、自然に任せて腐敗風化させる方法です。
風葬と異なるのは、鳥が食べることも含まれる点です。

死体遺棄じゃん

洗骨葬
遺体を腐敗風化させ、いわゆる骸骨にしてから、それをきれいに清めてから、もう一度埋葬する方法です。
沖縄や離島、東南アジアで行われているところがあります。
沖縄などの琉球諸島や奄美諸島では風葬を禁止された明治ごろから行われたといわれています。

宇宙葬
死体や遺骨を宇宙空間に打ち上げる方法です。
費用もかかりますし、法令上の規制などもあり、数例しかありません。

イーロンマスクが死ぬとき選びそう

鍋かぶり葬
死者の頭部に鍋を被せて埋葬する方法で、戦国時代から江戸時代まで行われました。
疫病で亡くなった場合などに利用されていたようです。

罰ゲームじゃん

エンバーミング
死体を保存処理して、長期保存する方法です。
レーニンやスターリン、蒋介石など、国の指導者などがこの方法で弔われています。

SFの世界!?

両墓制

両墓制は、墓の設け方のことで、「両方の墓」という言葉通り、遺体を埋葬する埋め墓と、お墓詣りのための詣り墓の二つの墓を用意することである。反対に、「単墓制」は遺体を埋葬する場所と石塔を建てる場所が同一地点にある墓制のことである。

現在では単墓制が一般的で、自分の家族や先祖も同じように単墓制での埋葬が多いのではないだろうか。

埋め墓と詣り墓を用意する両墓制は、近畿地方一帯、中部・関東および山陰地方で見られる。また香川県の塩飽諸島でも多く見られる。

よく考えると、墓に石塔婆を立てるようになったのが江戸時代以降で、墓=詣る文化が根付いたのは比較的短い。遺体を埋めているところに詣る文化が根付く前に、詣る墓と埋める墓がわかれたのであろうか。

改葬

伊豆諸島では、いったん埋葬してから数年後、再び墓を掘り起こし白骨化した遺体を取り出して改めて埋葬しなおす慣習があるようだ。埋葬した骨は焼酎や海水で洗い清め、適当な箱に入れられ、同一墓域内の先祖墓の下に再び埋葬される。

八木 透(2018)による『死をめぐる民俗文化』では、1970年代に行なった改葬のフィールドワークにおいて以下のように語っている。

八丈島では「墓地が狭いために,新しい死者を埋葬するスペースを作るため」と語る人が多いが,「シャリトリをすると死者に出会ったような気になれる」ともいい,古くからのシャリトリの意味を示唆するような伝承も聞かれる。筆者は 1970 年代に八丈島で実際のシャリトリの現場を調査したことがあるが,小さな子どもたちを含めて大勢が集まり,きわめて賑やかに行われていたのを思い出す。また終わった後は多数の親類や村人たちを招き,婚礼に匹敵するほどの盛大な宴が開かれていた。

祭事のように行われていた、というのは非常に興味深かった。私たちが墓参りをするとき、死者のことを考えるが、八丈島では賑やかに行うことで死者との再会を喜んでいるのだろうか。もしくは、死者の死を改めて確認し、その事実を乗り越えるための結束なのだろうか。

墓石

暮石の種類は非常に多く、数百種類存在している。その土地で取れた名前がつくことが多く、よく墓石として使用される御影石と大谷石はどちらも地名が由来している。

大谷石は価格は安いものの、石としての硬度は低く、経年劣化しやすいようである。一方御影石は価格が高いが硬度が高く丈夫であるといわれている。

御影石の中の本御影石は現在では採石ができず、最高級品となっているそうだ。

石の種類としては、花崗岩、安山岩、斑れい岩、閃緑岩が使われる。

なお、各岩石の説明は墓石の種類は300種類以上!定番墓石やおすすめ石材をピックアップから引用し、画像はplanetscope 岩石鉱物詳解図鑑より引用している。

花崗岩

二酸化ケイ酸分を70%程度含むマグマが地下深部で数十万~数百万年程度で冷えて固まって形成したもの

花崗岩の画像

写真はplanetscope 岩石鉱物詳解図鑑より引用

閃緑岩

マグマが冷えて固まった深成岩が元となっている。

閃緑岩の画像

写真はplanetscope 岩石鉱物詳解図鑑より引用

斑れい岩

深成岩が元になっている点は、閃緑岩と同様です。黒系やグレー系の石材で磨くと光沢が出やすいことが特徴

斑れい岩の画像

写真はplanetscope 岩石鉱物詳解図鑑より引用

安山岩

マグマが冷やされてできる火山岩。世界中に存在し、最近では国産だけでなく中国産も増えている。

安山岩の画像

写真はplanetscope 岩石鉱物詳解図鑑より引用

葬式関連の市場規模

お墓購入額の全国平均は、174万円あるようだ。

お葬式の一般的な値段の表画像

新型コロナウイルスの影響もあり、墓石業界の売り上げも減少している。人が集まることを避けるために、四十九日や納骨、法事などを延期していることが影響していると一般社団法人 日本石材産業協会会長の森田浩介は述べている。また、2019年10月の消費税アップ前の駆け込み需要からの落ち込みも大きな影響を与えているという。

なお、画像は【第9回】お墓の消費者全国実態調査(2017年)霊園・墓地・墓石選びの最新動向 より引用した。

2001年から2016年の15年で石材の市場規模は半減している。

石材の市場規模のグラフ画像

こちらは、経済産業省が出している工業統計調査を元に『ほーりーの旅ブログ』の著者がグラフ化したものである。綺麗な右肩下がりを描いている。

しかし、ITを駆使して売り上げを向上させている事例もある。茨城県常総市の山崎石材店では、顧客とお墓のデータベースを作り、社内SNSを使って情報共有を円滑にすることでコストカットを進め、2016年の売上高は2011年と比べて約1.7倍、顧客数は約2倍と大きく拡大している。

墓には住所がなく、石職人に現場の情報が共有できないことが課題であったようだ。田んぼの中にあるお墓などは位置の説明のしようがない。

そうした非効率を一つづつデータベースに取り込むことで効率的な経営ができるようになったようだ。何事もやりようだな。

まとめ

お墓の歴史を調べてみると、意外と面白かった。

参考文献

お墓と埋葬文化の歴史

お墓の歴史!縄文時代から現代まで15000年を振り返る

お墓の歴史について知りたくないですか?ディープな世界をご案内

棺の物語

古墳発生の歴史的意義

ヤマト(倭)王権の成立―宝器の生産―

薄葬令

FBの新通貨リブラ 「超国家」うかがう危うさ

仁徳天皇陵古墳

現代技術と古代技術の比較による仁徳天皇陵の建設

クフ王型大ピラミッド建設計画の試み

宗教性と死に対する態度

死をめぐる民俗文化

超詳しい卒塔婆のおはなし

両墓制(塩飽諸島など)

日本の通過儀礼

工業統計調査

墓石の知識・特徴を学ぼう(世界の銘石)

本御影石

墓石は御影石、大谷石?どっちで作るべき?

お墓さえ売れれば、石材業界は元気になるという勘違い

縮小市場で売上拡大! 老舗石材店が実践したこと