本音を吐露すること
コーチングを受け始めて2ヶ月が経った。コーチングとはどこかに連れて行ってもらうものではなく、自分の本音を吐露できる環境を持つことである。コーチは相手の意見を100%受け止めてくれるという安心感から、親友にも、家族にも話せない本音を話せる関係性を保つことに従事する。
この3ヶ月、環境が劇的に変わったとは思わないけど、自己変容に大きく気づくようになった。視座が高まった。
小さい箱の中から、でる感覚。
自分が悩んでいる対象の正体は、実態を伴うものではなく、その個人の経験や感情から形成されていて、他人から見ると実はそれほど大きな壁ではない。
夜の暗さに怯えてしまう小学生の姿を、見て大人は杞憂であることを諭す。その恐怖には実態が伴わないと。これは大人と子供の年齢の差から生じるものではなく、自分が同じ経験をして、杞憂であったという経験則から諭すことができる。
自分が小さい箱に閉じこもっている時、小学生と同じ恐怖を感じている。本当はそこに恐怖の元となる対象には実態がない。しかし、箱の中にいて、実態がないことに気づけない。
箱の外に出てる見ると、ただ箱の内側のイラストが恐怖心を煽るものになっているだけと気づくことで、恐怖が消える。
コーチングとは、その構造を理解し、相手にメタになりすぎずに諭すものなのだろう。
箱から出るためには、なにに恐怖を感じているかを認識し、言葉にすることが最小単位である。親友や家族に対しては伝えれないが、関係性がないからこそ話せることがある。
むしろ、親密な関係性とは、関係性そのものが大事になりすぎて、リスクを避けるようになるのが人間のサガである。
本音を吐露し、感じている恐怖をしり、言葉にするだけで恐怖心がなくなるのはそういうカラクリがあるから。
教育の本質とは、相手の住む世界を描写することによって、箱から出るように促せるためにあるのだ。
社会学、あるいは添削にならぶクラスメイト
社会学が好きだ。人間が共同幻想として持っている正体はなんなのか。その幻想はどのようにして作られるのか。その幻想を信じ込むプロセスはなんなのか。
自分が「なんで?」という時、その事象が起きた直接的な行動を知りたいのではなく、間接的な背景や思想を知りたいと思う。人間とは自分で意思決定をした結果、不合理を選んでしまうのではなくて、他者が選択している行動をさらって同じ行動を再帰することによって不合理が形成される。
不合理を指摘して「そうしないようにしましょう」というだけではただの自慰となってしまう。そう選んだ背景や思想に共感をし、最小単位の意思決定を変えることが重要なのだ。
SFと歴史
SF話を読んでいると、これはまだ見ぬ未来の予測不能なことと感じるのではなく、過去に起きたことの焼き直しだと感じる。
未来のことは誰にもわからないけど、過去の焼き直しなら想像ができる。SFとは、過去の出来事のパロディである。新しいものではなく、過去のエイリアスなんだ。
SFを読む時、過去と紐づける。似ている事象は何かを考える。進撃の巨人とは、空想の物語ではなく、人間と宗教と政治の関係性を表した歴史物語だ。壁とは社会制度であって巨人とはリスクである。社会制度でガチガチに縛った結果、内在しているリスクが肥大化し、近隣諸国を滅した。
リスクに対処する術を、人間はあまり学んでいないのかもしれない。リスクを潰していくことは、リスクを直視することになるし、リスクを直視するということは自分が孕ませたリスクの責任を負うことになる。
リスクの責任を負って、対処をしても、偉人になることはできない。リスクとは誰かが潰すものだから。
人間はリスクを正しく把握することも苦手かもしれない。人間は世界を3次元で把握するが、リスクとは4次元以上のものかもしれない。認識できないのは至極真っ当で、だからこそリスクを未然に潰すことはできず、膨張し顕在化してから反体制派が対処する、という歴史を人間はたどる。
社会実装を超えて
社会学、デザイン、テクノロジー。自分が生きていくであろう道だけど、この先に、何かが待っているのだろうか。私の好きは、なににつながるのだろう。社会変革につながるのか、自己表現に終始するのか。それとも別のなにかになるのか。
自分が生きる世の中に与えれる影響とは小さく脆く、そして大きい。把握できないものの一種である。知的エリートであるコンサルタントの将来予測が外れるように、影響とは文字通り人知を超えているのだろうか。
限界とは自由主義者が嫌う言葉であるが、意外と簡単に到達する。
人は世の中に対して謙虚にならなければならないのかもしれない。
カルチャー
カルチャーが人を作り、人がカルチャーを作る。この再帰的なループは、どこに帰結するのだろうか。戦争があるとご破産になる。歴史上、一度も破壊されなかったカルチャーは存在するのか。
自分の使命は、生きながらえるカルチャーを作ることかもしれない。ただし、そのカルチャーの行く末を、見ることはできない。自分の生涯でカルチャーの行く末を見ようとするから利益の独占につながる。
自分の巻いた種の花や果実を見ることはできない。それならなぜ私は種を巻きたいのだろうか。種を蒔いて、目が出た時くらいに寿命は尽きるだろうが、そのプロセスを楽しめるから種を巻くのかもしれない。