youtubeで知識を仕入れることが多くなった。
本は、情報の密度が大きい。一つの単語に含まれている情報量が多いことが活字の特徴であると思う。
良い文章とは、無駄がない文章である。主語述語目的語が明示されており、時間が経っても風化しない文章だ。
slackの文章でも、社内用のnotionでも、文字あたりの情報量が多いことが良い文章である。
「この前話した内容では〜〜」というよりも「9月23日に話した内容では〜〜」といった文章の方が、情報量の密度が高い。上記の文章ではどちらも特定の過去を指しているが、後者であればそれに加えて、背景が掴めない場合は、9月23日のメッセージを振り返ると文脈を捉えられる。
文章を書くとは、過去と未来をつなぐこと。過去に起きた事象や議論、決定事項を投稿直後から未来永劫に向けて情報をつなぐバトンの役割となる。
話を始めに戻す。
youtubeで気軽に教養を得られる時代になった。中田敦彦の動画はとてもわかりやすくて面白い。
では、youtubeが本を駆逐するか?と言われるとnoであると断言できる。
なぜなら、情報の密度が違うからだ。教養系youtuberの動画はわかりやすいが、本(テキスト)を読めば動画分の時間を短縮できる、テキスト情報ならではの持ち運びやすさがある。
また、youtubeには編集がある。カットされた部分には、無駄なやりとりとされる情報が取捨される。
歴史的に見ても、本が駆逐されることはなかった。15世紀に活版印刷が発明されて、人が知識を共有できるようになった。ある一定の大きさ(人の記憶を超える容量)を持つ情報を持ち運ぶためには本のサイズがちょうど良い。
アメリカから映画産業を輸入して、映像の世紀に入ったが、それでも本を読む人は絶えなかった。さらにいうと、映画から原作に入るパスも生じた。
1990年代に家庭用にwindowが発売され、人々はテキストのやりとりが容易になった。
それでも、本はなくならなかった。
電子書籍でさえ、紙の本を駆逐しなかった。
youtubeが本を駆逐するという議論をするためには、なぜこれまで本は駆逐されていないかという議論から始める必要がある。そして、その理由は人間に向けたデザインが優れているからだ。
他の代替物がありながらも、紙の本はなくならない。それは大きな情報を手で持てるサイズに収容しつつ、重さも人間が持ち運べる重さである、という物理的な理由。
それに加え、紙ならではの肌触りや体温、書き込みやすさ(鉛筆との相性の良さ)も存在する。
ホリエモンが「本を紙で購入するやつはインテリぶりたいだけ」というが、それも正解だと思う。人間は社会的な生き物なので、他人からの承認は生存に関わる。
本とは、情報を効率的に持ち運べるだけではない。活版印刷ができた当初は、情報の拡散性が人間に受け入れられた。今では、情報の拡散性は代替物が現れているが、物理的な理由や社会的な理由が織り混ざっているから600年近く残っている。
情報の質的な違い、物理的な違い、社会的な違いから、youtubeと本は共存するだろう。
この関係性は、ある意味で椅子と机に似ている。椅子も机も、どちらも上に何かを乗せることを主な用途として使われる。
ただ、椅子は人間を乗せるものとしてデザインがされている。背もたれがあり、尻が当たる箇所は柔らかい素材が使われていることが多く、緩やかな曲線を描いている。
一方机は、直線的な面であり、柔らかい素材よりも硬く、水捌けの良い素材が選ばれる。
論理的には、椅子の上に料理を乗せて食事することだってできる。机に座ることだってできる。しかし、人間に合わせたデザインが生態をなしており、テレコにした用途で人間は使わない。
youtubeと本の関係性は椅子と机の関係性にアナロジーを見つけることができる。これからもyoutubeはyoutubeの生態を発展させ、本は本の生態を発展させるだろう。